弁護士田中貴文(北海道じん肺訴訟弁護団・建設アスベスト北海道訴訟弁護団
全国じん肺弁護団連絡会議前幹事長)
2021年1月14日、横井久美子さんが亡くなった(76歳)。「ボーチェアンジェリカ」を退団して初めての演奏会は、青函連絡船に乗って1969年3月に函館労音から招かれて、函館ドックに行ったとのことであり、北海道との縁が深い方であった。
1989年3月に長崎北松じん肺訴訟の福岡高裁不当判決(高石判決)があった。判決は、最初の行政決定から10年で損害賠償請求権は消滅時効にかかる、損害額を大幅に減額するという、とんでもない判決でした。高石判決の判決報告集会で、平和的生存権の創唱者である星野安三郎先生(東京学芸大学名誉教授)は、「悲しみと怒りには時効はない」とじん肺被害の本質を喝破しました。その後、星野英一東京大学名誉教授(民法)は、消滅時効について、「時効とは、もと非権利者だった者に権利を与え、債務者に債務を免れさせる制度ではなく、真の権利を保護し、弁済した者の免責を確保するための制度」であるとし、「義務を履行していないことが明らかな債務者は免責されない」と論じた。長崎北松訴訟の最高裁判決は、「じん肺の特質にかんがみると、管理2,管理3,管理4の各行政上の決定に相当する病状に基づく各損害には、質的に異なるものがあるといわざるを得ず、したがって、重い決定に相当する病状に基づく損害は、その決定を受けた時に発生し、その時点からその損害賠償請求権を行使することが法律上可能となる」と判事し、福岡高裁不当判決(高石判決)の被害者敗訴部分を破棄し、審理を福岡高裁に差し戻した。
私は、1988年から弁護士になり、じん肺訴訟(金属鉱山、炭鉱)を担当していましたが、福岡高裁高石判決を機に、じん肺訴訟に深く関わることになりました。患者原告・家族・遺族らとともに、被告企業・背景資本・国などとの交渉や、自治体要請、街頭宣伝行動などの訴訟外の活動に注力することにしました。
1992年10月、郷路征記弁護士(旧統一教会に対する損害賠償請求訴訟で著名な弁護士)から横井さんが札幌に来るので会ってみないかと声をかけられました。郷路弁護士はスモン訴訟の弁護団員であり、国との和解解決の最終の局面には日比谷公園にテントを張って泊り込みをして厚生省前で連日街頭宣伝を行ったそうで、横井さんはそのとき以来の戦友だと言っていました。おそらく横井さんは街頭で「ノーモアスモンの唄」を歌って、スモン患者のたたかいを励ましていたのだと思います。
「ノーモア スモンの唄」 ビラを持つこの手を 握りしめてくれた
街をゆく人達の さりげない優しさ
そんな姿に 生きる力を取り戻したけれど こんな苦しみは 二度と この世に起こしてはならない こんな苦しみは もう私たちだけでいい
私は、学生時代に、全学連機関紙「祖国と学問のために」などを通じて、横井さんがベトナムを訪問して歌を歌っていることは知っていましたので、それはぜひということで、横井さんに会うことにしました。
横井さんは近々、筑豊じん肺訴訟の集会(1000人集会)に出演することになっているとのことで、その集会に向けてじん肺の歌を制作中であるとのことでした。私は、じん肺の患者さんの苦しい闘病生活や、じん肺に倒れた夫を介護する妻の苦労話をしたように思います。横井さんは、「夫へのバラード」を制作し、筑豊じん肺の1000人集会で発表しました。
「夫へのバラード」 父さん今はもう 夜が来ても大の字になり ゆっくりゆっくり息をして 眠っていますか
1993年10月には、「炭鉱(ヤマ)は消えた じん肺は残った」と銘打ち、「第4回なくせじん肺全国キャラバンー-音楽と連帯のつどい」として、全国のじん肺訴訟の6つの拠点(水戸、いわき、仙台、盛岡、札幌、赤平)で連弾して集会と横井さんのコンサートを企画しました。その後、横井さんは「ブラックラングブルース」も制作し、じん肺患者・遺族に寄り添いながら、全国のじん肺根絶のたたかいを励ましてくれました。特に、日本最悪のじん肺加害企業である日鉄鉱業とのたたかいでは、原告団・弁護団・支援者とともに本社の廊下でいっしょに座り込みをして謝罪を求める行動をともにしたことを覚えています。横井さんがギターを持っていたことは見ていましたが、まさか本社の廊下で歌うとは思っていませんでした。理不尽なものに対する怒りを共有し、民衆とともにある歌い手としての役割を果たしてくださった横井さんの姿に感動したことを覚えています。
横井さんは、こう語っています。
シンガーソングライターである私の仕事は、この国で起きている「事実」を、その「事実」のなかに存在する「美しいもの」を掬いだし、歌という芸術的表現で「事実」を知らない多くの人に伝えることだと思っています。いい歌というのは、時代を生きた人間の証であり、時代の荒波を乗り越えた魂の叫びです。そんな「美しい魂の叫び」に出会い、みなさんの仲間に入れていただき歌うことができたことに、心から感謝しています(なくせじん肺筑豊の会編「筑豊じん肺訴訟18年4か月の軌跡 俺たちはボタじゃない」から引用)。
その後も、横井さんはアフガニスタン、ネパール、ベトナム、アイルランドなど海外で活躍されているほか、東日本大震災・原発、辺野古などの様々なたたかいでも歌を通じて活動を続けました。年齢とは無関係に、年々進化し続ける横井さんの姿には、私自身を含め横井さんと親交のあった方々は、その生きざまに励まされたことだと思います。
横井さんが存命であれば、建設アスベスト訴訟のたたかいを励ましてくれる唄を作ってくれたと思います。
娘の野麦さんは北海道大学法学部に入学しましたので、学生の野麦さんに私が担当した事件の被害者遺族が制作した記念誌のパソコン入力のアルバイトをしてもらったことがあります。野麦さんはワシントンのロースクールを卒業し、ワシントンDCの法律事務所に就職することになりました。日本の弁護士の許で聞き取りをして書籍の出版に携わったということが、野麦さんの就職にとって重要なキャリアになるとのことでしたので、横井さんには少し恩返しができたかなと思います。
2019年7月21日に「50周年記念コンサート」が行われました。北海道から弁護士、訴訟原告、訴訟支援者約20名が参加した。ほぼ20年間にわたって、北海道でじん肺関係の行事が行われるとその度に横井さんに来ていただいた関係があって、これだけの人数になったと思います。
昔からの音楽活動を知る身としては、年齢を重ねることによって、横井さんの歌声もだんだんハリと力強さがなくなってきたなと感じることがありました。ところが、である。50周年コンサートのときは、どのような訓練を積んできたのか分かりませんが、往年のハリのある力強い歌声が完璧に戻っていました。横井さんのCDをほぼ所持している私としては、後半はだんだんアウトになっていくのではないかと思っていましたが、何と、最期の大団円が終わるまで張りのある歌声は続きました。さすがプロだなと思いました。
道半ばに逝かれたことは残念ですが、最期に白鳥の歌を聴かせてくださった横井さんには感謝したいと思います。
横井さんはたくさんの歌を歌ってきましたが、胸に刻まれた名歌をいくつかをあげます。
「何という胸の痛みだろうか」 何という胸の痛みだろうか けれど私に できることは少ない 自由を求め さまよいつづけ 野に果てるとも 明日を信じて
「私に人生といえるものがあるなら」 私に人生といえるものがあるなら あなたと過ごした あの夏の日々
「私の愛した街」 今ではもう音楽もない でも 町の人は 絶望してない
忘れはしない この出来事を
まなざしが 語っている
私にできることは一つ
戦うことだけなのだ
青春を過ごした デリーの町
私の愛した町
青春を過ごした デリーの町
私の愛した町
2005(平成17)年7月14日、最高裁は国の上告受理申立を不受理と決定し、北海道石炭じん肺訴訟における国の敗訴が確定した。
同年11月26日、北海道石炭じん肺訴訟原告団・弁護団は、横井久美子さんを招いて、札幌グランドホテルで「北海道石炭じん肺訴訟勝利祝賀会」を開催した。
画像中央で歌う横井久美子さん。右側のギタリストは安田雅司郎さん。左側で弁護団の田中貴文と長野順一がギターを弾いている。司会は事務局の斎藤道子さん。
祝賀会が終盤にさしかかったころ、会に出席していた北海道、筑豊、長崎の炭鉱の母ちゃんたちが、「炭坑節」を唄いながら輪舞しはじめた。なるほど、炭鉱とはこういうところなのだと実感した。

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